特集

栃木トヨタ80年 クルマと共に走った栃木の街

栃木県内で自動車販売を手がける栃木トヨタ自動車が今年、創立80周年を迎えた。戦後間もない時代に常勤6人で始まった同社の歩みをたどると、自動車の普及だけでなく、産業や家族の暮らし、地域との関わりなど、栃木の80年間の変化が見えてくる。

創業当時の社屋

 

「生きていくための車」から始まった

栃木トヨタの歩みは終戦翌年の1946(昭和21)年に始まった。戦時中、自動車は国の統制下に置かれる。各メーカー系列の販売店は廃止され、配給制度が敷かれていた。終戦後、各メーカー系列の販売店が再開された際に、トヨタ車を扱う自動車ディーラーとして県内では最も早く誕生したのが同社だった。同社の実質的な創業者は、新井孝則現社長の曽祖父に当たる新井庄吉さん。現在は足利銀行本店が立つ土地に本社を置き、常勤6人で事業を始めた。

創業当時のメンバー

創業当時に扱っていたのは、軍事用として使われていたトヨタのKC型トラック。一般家庭が自家用車を持つ時代ではなく、自動車は人や物を運び、仕事をするための存在だった。創業から10年間で販売した自動車は約1000台。当時について、新井社長は「『車で栃木をもっと豊かな地にする』という夢を抱きながらも、当時はまだ生きていくための車だったのだろう」と表現する。戦後の復興へ向かう栃木で、自動車は人々の仕事と生活を支えるために走り始めた。

 

地域産業の発展とクラウン

戦後復興から高度経済成長へ向かう中、自動車の役割も変わっていった。1955(昭和30)年、本格的な国産乗用車として「クラウン」が登場した。東北自動車道などの高速道路網も整備され、個人ユーザーにもクラウンが普及し始めた昭和40年代、宇都宮では大谷石の採掘が全盛期を迎えており、大谷石産業に携わる人の中にはクラウンを購入する人が多かったという。地域産業が発展し、人々の暮らしが豊かになる。その変化とともに、自動車は一般家庭に浸透し始めた。「生きていくための車」から「家族との時間をつくる車」へ。自動車の役割の変化は、戦後の栃木の暮らしの変化とも重なる。

 思い出写真コンテストより

 

老舗企業だからこそ、新しいことに挑む

同社は80年の間、新たな取り組みを続けてきた。ハイブリッド車や燃料水素電池車などの新しい車が出ると最初に扱うのは県内では同社だった。また、中古車、レンタカーなど、新たな領域を次々と切り開いてきた。近年では、宇都宮市インターパークに地域コミュニティー施設「ミナテラスとちぎ」も開設している。老舗企業でありながら、新しい分野への挑戦を続ける。それは、地域で必要とされるものを考えながら、事業の裾野を広げてきた歴史でもある。新井社長は「考えてみると、当社はこれまで自動車を販売してきたというより、栃木のインフラを創ってきたのではないか。時代は変わっても、地域のインフラを創ることに貢献し続けたい」と語る。

 80周年広告

 

年間10万人との接点 店舗を人が集まる場所へ

現在、栃木トヨタには約10万人の顧客がいるという。店舗に来店する理由は、車の購入や修理、点検だけではない。顔なじみの社員との会話を楽しみに足を運ぶ人の姿も見られるという。新井社長は、こうした関係をさらに広げ、それぞれの店を地域の人が自然と集まる場所にしていきたいと考えている。前述の「ミナテラスとちぎ」にも、その考え方が表れている。人が集まり、出会い、つながる。車を売る場所から、人が集まる場所へ。自動車販売店の姿そのものが、これから変わっていく可能性がある。その基盤にあるのが、地域との日常的な関係だ。地域との接点は店舗だけにとどまらない。スポーツの分野では飛び込み競技を体験する「榎本遼香飛び込みチャレンジ」を始め、子どもたちが参加できる取り組みにも関わってきた。車を介した関係だけではなく、スポーツや教育、文化へと地域との接点を広げている。「社員はみんな地元が好き」と新井社長。地域の祭りなどにも積極的に関わる。普段から地域の中に入り、人との関係を築いていることが、「いざという時」の底力にもつながっているという。

スポーツ支援 榎本遼香飛び込みチャレンジ

 

レストアで伝える「ものづくり」の面白さ

自動車そのものも、この80年間で大きく変わった。現在はコンピューター制御が進み、不具合の診断も機器を使って行うようになった。整備の効率や精度が高まる一方、エンジニアが自ら車に触れ、考え、直していくという「ものづくり」の面白さを経験する機会は少なくなっているという。そこで80周年を機に取り組んだのが、1968(昭和43)年式「トヨタ・パブリカ バン」のレストアだった。古い車をよみがえらせる工程を若い社員にも見せたい。その思いは社内にとどまらず、地域の高校生も参加する取り組みへと広がった。一つ一つの部品を見て、触り、状態を考え、手を動かしていく。長年積み重ねてきた自動車の技術と、ものづくりの面白さを次の世代へ伝える。「パブリカ バン」のレストアには、そんな意味も込められている。

「トヨタ・パブリカ バン」のレストアの様子

 

40年たっても残る「感動」

80周年を迎え、次の20年を考える新井社長は、阪神タイガースの応援を楽しみの一つにしている。ファンになったきっかけは1985(昭和60)年の日本一。豪快に打ち勝つ野球に魅了されたという。40年以上たっても、その時の感動は記憶に残っている。振り返れば、自動車もまた、人の記憶と結び付いてきた。新井社長自身、幼い頃にクラウンに乗り、家族で出かけた記憶があるという。今回提供された「思い出写真」にも、クラウンと共に写る子どもや家族の姿が残されている。それぞれの一台に喜びや家族との時間がある。車を販売することは、一台の商品を届けるだけではない。その先に、家族との時間や出会い、移動する喜びが生まれる。

思い出写真コンテストより

 

100周年へ 「一緒にやろう」と言える会社に

新井社長がこれから大切になると考えているのが「共創」だ。人口減少が進む中、一つの企業だけでは地域の課題を解決できない時代が来る。だからこそ、企業、学校、行政、地域住民がつながり、必要な時に「一緒にやろう」と言える関係をつくっておく。誰かから声がかかるのを待つのではなく、自ら地域と主体的につながっていく企業を目指す。自動運転などの技術が普及すれば、自ら運転することが難しい人にも移動する機会が生まれ、人と社会をつなぐ新たな地域インフラになる可能性もある。

「地域インフラを創る企業として、地域を良くしていきたい」その根底にあるのは、80年間支えてきた地域への感謝だという。地域への感謝を持ち続け、さまざまなことに挑戦しながら、事業の裾野を広げていく。10月1日に開かれた同社の80周年記念式典に出席した須賀学園の須賀英之理事長は「時代の潮流を読みながら、常に先進的な取り組みに挑戦する新井社長には、100周年まで頑張ってほしい。今後は『生活総合産業』として、地域課題の解決にもリーダーシップを発揮してほしい」と期待を寄せる。

100周年を迎える2046年、栃木の街をどんな車が走っているのかは分からない。それでも、移動する喜びや人と出会う機会、人の心に残る体験をつくることはできる。6人で始まった栃木トヨタ。次の20年は、車の先にある人と地域を見つめ、「一緒にやろう」と声をかけられる関係をつくる新たな挑戦の20年になる。

創立80周年記念式典感謝の集いの様子(栃木県福田富一知事挨拶)

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